前回まで
初回であった前回は、自分自身のやりたいことについて書いた。ざっくり纏めると、差異と言語というキーワードを切り口に、色んなことを学習する上での効率的なアプローチを考えたい、という話であった。
▼ 前回の投稿
それで今回は、じゃあ差異と言語って、一体どういうことを指しているの、ということについて、書いていきたいと思う。
差異と言語というと、いかにもなキーワードで、20世紀には様々な分野で用いられてきた背景が有り、存分に議論がされてきているのだろうが、それらの議論の多くを真面目に追うということはしてきていない。
ぶっちゃけると全体の概観、流れ、ポイントポイントで浅い理解をしている程度である。でも、このプロジェクトにおいては、それでいいと思っている。
論文を書きたいわけでもなく、自身が求めているのは学問的な厳密性や正しさではなく、シンプルに目的(≒学習の効率性向上)に対して役に立つか否か、という軸で判断したいと考えている。また、実践におけるボトムアップ的な学び・成長が生まれていく中で、実践的な理解の後追い的な側面が強いと思うからである。(もちろん理論からの仮説立証としての実験には、日々トライしている訳なのだが)
とはいえ、自信満々に浅い理解をさらすのも恥ずかしいので、引用や専門用語の使用はできるだけ避け、自分にとって扱える範囲の言葉で書いていきたい。
差異とは何か
差異とは、人間の主観的な認識における条件的な存在であり、自己の知りうる情報は差異の存在を前提とする、と考えられるものである。
認識には対象が存在し、その対象が存在するということは、同時に対象ではないことも定義される。その境界としてみなされるものを、差異だと考える。
対象Aについて「Aである」という認識の成立には、同時に「Aではない」が理解されることが必要である。もし「Aであること」と「Aではないこと」の差異が存在しないのであれば、それを我々は「A」として認識できない。
私たちの扱える=認識できる全て情報とは、その見方によって差異の上に存在すると考えられる。
いや、と言うよりも、差異をそのようなものとして定義づけている、と言えそうだ。そもそも認識が成立した後で、その空間の内部から、後付け・後追いでそのように定義したという構図だと思う。
“Information is a difference that makes a difference”
こんなことを言っている人もいる。
また認識は主観的なものであり、主体が保有する知識や経験、感覚器官などの状態に影響を受ける。
- Ex. 虫⇔ 人間(色に対する認識)
- Ex. 漁師⇔ 一般人(海に対する認識)
- Ex. 子供⇔ 大人
しかし、そういう意味では認識の対象Aという概念自体主観的であるのだろうが、それを「語る」という文脈においては、やはりAであるのだろう。
その差異のあり方自体に必然的な意味はない=恣意的である。差異が差異として存在することが本質である。
差異による認識の違いの例
認識する対象は、そうではないものとの区別の上に成り立っている、と考えられる。
- Ex. 人間の場合
- Ex. キャラクターの場合
- これは「紺野純子」である。「紺野純子」は「戦場ヶ原ひたぎ」ではない。
- Ex. 言葉の場合
- これは「あ」である。「い」は「あ」ではない。
- これは「喜び」である。「喜び」は「悲しみ」ではない。
- Ex. 音楽の場合
- この音は「ド」である。「ド」は「レ」ではない。
- Ex. 絵の場合
- この色は「赤」である。「赤」は「青」ではない。
- この線は「髪」である。「髪」は「顔」ではない。
- Ex. 数学の場合
- この図形は「四角形」である。「四角形」は「三角形」ではない。
- この数字は「4」である。「4」は「7」ではない
これらの違いがあることが、それぞれの概念を成立させている。
結局、実践に向けてこのあたりの議論は、あまり役に立たないので、意図的に形作られた差異が認識可能な形で存在し、それぞれに割り当てた「意味」を想起できる触媒として存在しているという点が抑えられていればいいのだと思う。
意味については、次の「言語」の部分で扱っていく。
言語とは何か
では、差異から次に言語とは何か。言語とは、差異を用いて「意味」を構築するための体系・システムである、と考えている。
言語は、差異を一定の法則や規則に応じて体系化する。言語においては差異を構成するための媒介とその認識器官が必要になる。
- Ex. 音楽の場合:音→聴覚、楽譜→視覚
- Ex. 言葉の場合:音→聴覚、文字→視覚、触覚
- Ex. 絵の場合:色→視覚、点線→視覚
これらの差異を区別可能な形を残して恣意的にコントロールして体系を作る。
では、そのなんのために体系なんぞ作るのか。それが「意味の構築」である。
言語が持つ意味
差異は、ある次元においてトートロジー以上の「意味」を保有する。単純な差異のままでは、そこに意味はないはずである。そこにあるのは、識別可能な差異そのものがある、というだけである。
しかし、特定の差異によって、その記号性自体の意味(=トートロジー)以上のものを保有することがある。例えば下記。
- Ex. 数学の場合
- 3本の直線がある。→線は線である(トートロジー)
- 3本の直線がある。それらが頂点を結び形を作っている。
- 三角形は、単なる三本の線の集まり以上のものである。
- Ex. 音楽の場合
- 「ド」「ミ」「ソ」という単音
- 「ド」は「ド」である。「ミ」は「ミ」である。「ソ」は「ソ」である。(トートロジー)
- 「ド」「ミ」「ソ」という和音
- Cの三和音を構成し、「響き」という意味を生み出す
- =「ド」「ミ」「ソ」が同時に鳴る時、それは各単音の単なる合計以上のものである
そもそも意味を抜きに認識するなんてことは、人にはできないはずなのだが、(それは神の視点とも言える)概念を概念そのままとして扱う=トートロジーとしてみなそうとした場合、よりも過剰な部分が存在することに気がつく。
1 + 1 = 2
にたとえば何か時間軸や加算的な何かを見出したら、それは過剰部分である。本来 1 + 1 = 2 は現実性などは一切関与・考慮しない規則に基づく記号の機械的な変形すぎない。
どこまでいってもそれは
1 + 1 = 2
ということでしかない。(=トートロジー)
もしそれ以上があるとすれば、それは「意味」というものだろう。
言語の存在意義
言語は、社会的な動物である人間が、他個体との意思疎通や情報保存のために、自然発生的に生まれてきた道具であると考えられる。
自らに見えているものを他人に同じように伝えるための手段として言葉があるということで、言語には意思疎通のプロトコルとしての媒体と規則が存在する。それが言語と呼ばれるものである。
言語そのものはトートロジーであるならば、過剰であるその意味は、言語を交わし合う個体間が共有する現実の側から与えられている、と考えるほかない。
- 意味は①体系の外部(≒現実性)から与えられる、もしくは②他の体系から与えられる
- ②も突き詰めれば①で与えられると言えるだろう
- 体系それ自体に意味は含まれない
- そこには区別可能な差異が在るだけである
例えば、
- 和声理論に意味は含まれない。
- 遠近法に意味は含まれない。
- 50音に意味は含まれない。
(ちなみに、意味は含まれないが、意図・恣意性は含まれているとは言えるのかもしれない。なぜなら、それらは人間の都合で作られた体系なのだから)
このニュアンスで、辞書にも”意味” は含まれないと言えると思ってる。
辞書が定義しているのは、言葉同士の”関係性”であって、意味そのものを与えている訳ではないから。(しかし、意味のレベルでも、それは結局語ればはそう言わざるを得ないのだが)
そうであるならば、意味は外、つまり「現実」から付与される。意味を付与するための方法は「言語の使用」である。現実世界における特定文脈での言葉の使用が、その言葉が持つ意味を動的に形成する。
用法が変われば、意味も変わるというのは、誰もが馴染みのある話だろう。
その意味で重要なのは「現実性の共有」である。それを"常識"と呼んだりもする。
同じく規則を理解し、同じ現実の常識を理解する人間であれば、差異から意味を取り出すことが出来る。規則だけを理解しても、現実世界を共有していなければ、同じ「意味」は取り出せない。意味を与えているのは現実の側からだからである。
例えば、突如地球に現れた宇宙人が全く同じ言語を母語に使用していたとしても、表面上会話が完全に成立していたとしても、地球人と同じ意味を持っているかは全くわからない。異なる生活の現実性を言語が意味レベルで橋渡しすることはできない。
有名な中国人の部屋とは、こういうポイントを扱った話だったと思う。
次回
定義の話は、抽象度が高かったので、次回は言語の具体例を出したい。