ジャズのトランスクライブと小説の模写・写経

トランスクライブ練習から考える小説の「模写」

ジャズの練習方法から考えて、小説においても、こういうことをやればよいのだと言うことが分かった。最高の作品に対する語法を学ぶということが必要である。

だから小説においても、最高の小説をそのまま「模写」するというアクティビティを続けることで、自分の力になっていくということだと思われる。

いつだかの文学賞を受賞した作家が、有名な作品を何回も"写経"して上達した旨を話していたことを思い出した。小説家が小説家志望に写経を勧めている話もいくらか見かけた。なので、既に練習方法・手段としてある程度定着しているものなのかもしれない。

ただ、やはりなぜ「写経」「模写」で上達できるのか、それを知って行わないと効果が損なわれるように思う。

私は感覚的には、ジャズのソロをトランスクライブをすることで、良いソロが取れるようになる力がつく、ということと同じであると思った。

しかし、トランスクライブは"音"を"楽譜"に起こすという行為なのであれば、小説の場合は、"文字"を"文字"に起こす、ということであってはいけない気がする。

それは本当に単に作業としての写経であって、自身の想像・表現したいことに対する言語化能力そのものを磨ける訳では無い気がする。

おそらくは「意味」を文字に起こすということをしなければいけない。でなければ、模写にはならない。

音楽は音自体が完成品であるが(当然ならせばいいというわけではなく、様々なニュアンスを磨かなければいけないのであるが)、絵の場合は作品自体に時間軸が存在しないため、模写においては完成までのプロセスに対して、作品の構造に対して理解を求められる。

小説の場合はどうだろう。書かれている文字をそのまま写すこと自体には恐らく意味はない。重要なのは、文字→意味→文字の特に、意味→文字のプロセスを踏んで行くことなのだと思う。一流の作家が描いた情景、状況、心情、概念をまずは自身のボキャブラリーで理解し、それを捉えた上で、それを再び一流のボキャブラリーに落とす。(これはトートロジー的でもあるのだろうが。なぜなら自分の最初に理解自体が作者の文字でしかないからだ)

そこでイメージと文字の対応関係や表現方法、ボキャブラリーを増やし、最終的には自分のイメージ自体を文字に広いボキャブラリーで落とせるようになる、ということなのだろう。ジャズのトランスクライブになぞらえるとそんな感じ。

構成レベルの話

一方で構成レベルの話は、この練習では行けないように思う。構成レベルはやはり戦略レベルの話で、戦術レベルではひっくり返せないものであり、より計算的に緻密に全体それ自体として組み立てなければいけないものだろう。

1コーラスが完璧でも、それが発展していかないアドリブは面白くない。それはコーラスという単位がどう変化していくのかを大局的な目で見ようとしない限り、養われない部分だろう。